最近、ランニングをするのがしんどくなっていた。
出かけるのが億劫で、走るのが嫌で嫌でしょうがない。
でも走らないと、走れない自分を責めてしまう。
それなら走ればいいのだけど、走るのが億劫という面倒なローテンションに入ってしまっていた。
「みんなキチンと計画的に走れて偉いなー」と感心しては、走れない自分をまた責めるという、、。
アホかいなと自分でも思うのだが、どうしょうもない。
そんな中『ぼくたちの習慣でできている』佐々木典士著という本に出会って、自分にとってのランニングは、どんな価値があるのかを考えてみた。
「ランニングは自分にとって、タイムを狙うものでなく習慣の一環である」
とポジションを決めたら、すごく楽になった。
どんな事なのか書いてみようと思う。
ランニングをなぜにするのか〜習慣として1日の始まりに、自分の心のあり方を整えるためのランニングと決めてみた
走るのが億劫である
冒頭にも書いたが、走るのが億劫になっていた。
正確にいうと、走りに行くために出かけるのが億劫になっていた。
なんでだろう。
そりぁそうか、暑いし、疲れるし、時間はかかるし、なんにもいい事がないように感じてしまう。
走り出す前は。
走り出してしまえば、走ることは億劫ではないのだけど。
走るのをやめたくない
億劫なのに走るのをやめたくない。
なんでだろう?
億劫ならやめてしまえばいいのに。
わたしが走るのをやめても誰も困らない。
走るの辞めたんだー、へーくらいなもんである。
アスリートでもないし、体重管理のために走っているわけでもないし。
いやなら辞めてしまえば、いいのに辞めたくないというジレンマ。
なにか自分にとってのメリットがあるに違いない。
習慣化をすすめる本を読んだ
『ぼくたちは習慣でできている』佐々木典士著という本に出会った。
その中に、人間は意志のチカラで生きているのではないと書かれていた。
どんな事かと簡単にいうと
人間は「トリガー」(きっかけ)→「ルーチン」(決まった作業)→「報酬」で日常生活は回っている。
いちいち意志の力で活動しているわけではない。
数珠つなぎのように活動することで、質のよい生活・仕事ができるといっている。
決まったことを、決まったようにすることで「全部上手くいく」という訳である。
途中でつまづくと、上手くできない自分を責めて、行動の質が悪くなるという。
はっ!
確かに、早くから活動して走れた日は気分良く行動も多い気がする。
逆に、ダラダラして走れない日は「今日はもう捨てた、ダラダラしていよう」などと思って活動量が少ない気がする。
ブログも同じで、量産していた期間はなんでも思いついた事をドンドン書けていた。
なるほどである。
自分にとってのランニングとは?
はっきり言って競技としてランニングはしていない。
タイムを目指すようなキツイ練習なんかしたくないし。
でもどうせ走るなら、上手く走りたい。
走り終わった後の爽快感はある。
うーん。
それならこんな風に考えたらどうだろうか。
わたしにとってランニングは、インプット・アウトプット・フィードバックを実践場である。
そう考えると、裸足で走る理由もしっくりくる。
裸足で走るのは良いらしい(インプット)
それではやってみよう(アウトプット・行動)
やってみた結果、どうであったか(フィードバック)
おお!
なんかしっくりくるぞ。
1日のスタートアップとしてのランニング。
もう一つ。
早起きをしたいのである。
朝、いつでもスッキリ、バッチリ目が覚める訳ではない。
というか、スッキリ目が覚める事の方が少ない。
それなら走りにいけば目が覚めるはず。
そう、早起きをするために走るというのはどうだろう。
これもなかなかいい感じである。
これなら、走りにいく動機になりそうである。
ストレスになっていた
こう決めてしまったら、非常に楽になった。
苦しいなら止めてしまえばいいのに、止められないという状態から脱出できた気がする。
(またグズグズと余計な事を言い出す可能性も大であるが、、)
今までは、人と比べていたから苦しくなっていたのかもしれない。
人と比べて、自分のタイムは、練習量はなどと、他人軸で考えていたのではないか。
他人軸で考えていたから
「(他人と比べて)やらない自分は駄目である」
と自己肯定感を自分でだだ下がりさせて、自分で自分にストレスをかけていたのかもしれない。
ストレスをかけて、行動の質を落とす。
またそれがストレスになって、行動の質を落とすというスパイラル。
やれやれ、こんなメンタルじゃ、それは苦しくなるわな。
最後にまとめ
自分にとってのランニングは
「習慣として、1日の始まりに自分の心のあり方を整えるためのランニング」
というボジションでやってみることにしてみよう。
これなら、なかなか楽しそうである。